
●漢字と満州文字が併記された中国の故宮にある門
JB Press 2013.09.19(木)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38720
モンゴル人を悩まし続けている「文字」の変遷
政治勢力に翻弄され、縦書きと横書きを行ったり来たり
今年の夏は、北京から内モンゴル自治区北東部ハイラルを通り、満洲里を抜け、ロシアへ入り、ブリヤートの中心地ウランウデから南にウランバートル、そして北京に戻るルートで調査旅行を行った。
収集した資料はほぼ現地で送ることになるのだが、重要なので持ち帰りたかったり、送る荷物に入り切らなかったりして何冊かは持って移動することになる
■モンゴル文字を苦しそうに読むモンゴル人
それについてはそれほどのドラマもなく、ロシアもモンゴルも途中気分が悪くなるようなひどい道であったこと以外書くことはあまりない。
ただ、ロシア・モンゴル国境から、バスに乗り込む人々がいた。
後で分かったことだが、入国管理に携わる人々とその家族などが乗り込むらしい。
ほぼ満員であったが、後ろに若干の空席がある。
その1つは私の横にあった。
モンゴル人青年がそこに座った。
後で聞いたところ、国境で入国審査などの仕事をしているらしい。
昇級試験を受けにウランバートルに行くところとのこと。
最初英語で話しかけてきたが、非常にうまかった。
ロシアで買った本が何冊か、座席の前についているポケットに入れてあるのを取って眺めていたが、そのうちに、本の裏側に書かれていた、縦に書いてある文字を読み始める。
不鮮明で判読しがたい文字の列に手を焼いたようだが、どうやら戦争について書いてあるらしいとのこと(こちらは酔っていて文字を読む状況ではなかった)。
学校で勉強したらしいが、読み慣れないからかゆっくりとしか読み進められないとも話してくれた。
書いてあったのはモンゴル文字である。
モンゴル語には現在2つの表記がある。
1つは縦書きのモンゴル文字、
もう1つはロシア語と同じ横書きのキリル文字。
モンゴル文字は、中国は内モンゴル自治区で日常的に使われており、キリル文字はモンゴル国で使われている。
キリル文字を使っているため、「ロシア語と似ているんですか?」という質問も受けるのだが、文法的に言うと日本語に近い。

●日本語と非常によく似ているモンゴル語
パスパ文字
モンゴルに2~3年住むと、日本語の表現がおかしくなっていく。
若干の違いが変だという感覚を生む原因であるが、「てにをは」を含め、一語一語を置き換えるだけでほぼ通じる。
それぐらいモンゴル語と日本語は近い。
それで、2~3年の間にだんだんと思考がモンゴル語寄りに変化していき、日本語が変になっていく。
モンゴル語をキリル文字で書き始めたのは1946年頃、モンゴル文字は12~13世紀頃と言われる。
モンゴル文字は、もともと横書きであったアラビア文字系の文字をウイグル人を介して導入したものと言われている。
横のアラビア文字が縦になった原因を、モンゴル人は、馬に乗って書くのには都合がいいからと説明したりしているが、研究者の間では、おそらく縦書きの中国語と商売の際の契約書などで併記して書いているうちに縦書きで書くようになったのではないかという推測がなされている。
なお、中国・故宮にある様々な門の名前の表記に漢字とともにあるのは、モンゴル文字を満洲語用にアレンジした満洲文字である。
ウイグルからの借り物であったためか、完全にモンゴル語の音を明確に書き分けることができず、その後もモンゴル語は様々な文字を試される。
その中でもチベット人仏教僧パスパの創ったパスパ文字は、元朝にあった様々な民族の言語を表記できる国際的な文字としての使用が目指されていた。
もちろん、モンゴル語もその1つとされた。
結局は1368年、元朝が崩壊し、モンゴル人たちがモンゴル高原に退却するに伴い使われなくなった。
速記ができるモンゴル文字に比べパスパ文字は表記が煩雑だったこと、モンゴル文字は表記が曖昧であるがゆえに、どの方言からも等距離に隔たっている状態になったのに対し、パスパ文字は宮廷のモンゴル語を正確に表記することで逆にほかの方言から遠ざかってしまったことなどが、すぐに使われなくなった原因だと言われている。
なお、ハングルは、一からできた文字ではなく、パスパ文字の影響を受けているという説がある。
それから600年、数々の挑戦を受けつつも使われ続けてきたモンゴル文字に転機が訪れる。
1921年革命が起き、1924年に社会主義政権が成立したのである。
■ソ連の見えざる圧力を受けてラテン文字・キリル文字を採用

●1931年、識字推進運動のポスターに見えるラテン文字とモンゴル文字
識字率10%以下である原因としてモンゴル文字が槍玉に上がり、モンゴル語を表記する文字としてラテン文字(ローマ字)が「革命の文字」として主張される。
もちろん、モンゴル文字のままでは、旧来の仏教説話などを使って授業をせねばならず、いつまでも社会主義の「新しい考え方」が浸透しないことを危惧したことも原因だとされる。
1930年代初めからラテン文字表記が施行されたが、モンゴル文字派の抵抗がいったんは勝利した。
しかし1930年代後半、スターリンによるテロルの余波を受けてモンゴル文字を使い続けることが民族主義的であると弾劾されるようになると雰囲気が一変する。
自らの命を救うためには、皆がラテン文字化を支持せざるを得なくなったのである。
1941年2月ラテン文字表記に対する正式なゴーサインが政府から出されたが、翌月、ロシア語と同じキリル文字で表記することが決定される。
それもラテン文字表記を決定した政府の同じメンバーによって。
革命の中心地であるモスクワから何らかの圧力があったことは明らかであった。
中国内モンゴルにおいても、キリル文字を採用しようとする動きは1950年代にあった。
しかし1950年代末から表面化し始めた中ソ対立がその運動に影を落としいつの間にか止まってしまった。
1980年後半のペレストロイカ期、モスクワ中央の箍(たが)が緩まり、モンゴル国(当時モンゴル人民共和国)では再び民族の伝統を評価し、その復活を目指す運動が現れ始める。
その象徴の1つがモンゴル文字であった。
キリル文字表記を廃止し、モンゴル文字を復活させる運動が高まる。
1992年9月、小学校1年生からモンゴル文字での教育が始まった。
しかし、その子らが3年生に上がる頃には、キリル文字に戻されることになった。
数字や化学式などと縦文字表記が合わないこと、そして何より、壊滅的な経済状況の中で、教科書も、そして縦文字で教育する特に理系の教員養成のための予算がないことが理由であった。
■国境線を隔てて同じモンゴル人でも使う文字が異なり続ける
こうして、モンゴル国と中国内モンゴルではほぼ同じモンゴル語を使いながら、表記が違うという体制が続いている。
今後もこのままの体制で行く可能性は大いにある。
国境線というラインで非常に似通った言語同士に違いが造成されるという現象は、世界中、実に様々なところで見られる。
国として独立するときに、今まで自分たちを支配していた国の言語から独立し、新たな言語を作ることもその1つであろう。
特に隣接する国家においてはそのような意識が強く現れる。
デンマークから独立したときのノルウェー、スペインとポルトガル、最近ではセルビアとクロアチアなどで見られた現象である。
しかし、モンゴルと内モンゴルにおいて文字を巡って見られた現象は、自分たちの意思で違いを作っていく運動ではなく、他国に振り回された結果できたものであることが重要である。
以前同じモンゴル文字を使い相互にやり取りできたブリヤート(1938年、キリル文字をモンゴル語と別の正書法で採用)も含めるとその国境との関係は明らかである。
文字と言えば、ソ連から独立した中央アジアでの国々の中にもロシアの影響圏を脱するために、ローマ字表記を採用する国が出てきている。
もともと中央アジア諸国の言語は1920年代~30年代にかけてローマ字を採用していた。これは、19世紀中頃から独自の近代化思想の議論の中で出てきた動きである。
1928年、トルコはトルコ語をローマ字表記を決めたが、これは中央アジアと共通の流れの中で採用されたものである。
ロシア連邦内にとどまったタタール語においてもローマ字表記を採用する動きが盛り上がった。
カウントダウンに入ろうとする2002年12月、「ロシア連邦諸民族言語法改正法」が採択され、ロシア連邦国家語とロシア連邦下で少数民族が作る共和国の国家語の文字はキリル文字に制限されることとなり、改革の動きは止まってしまった。
これも文字に勢力圏を表す意味合いがあるからだと考えられる。
少数民族の運命の1つとも言えそうである。
よく考えれば、ローマ字、キリル文字、アラビア文字、インドのデバナガリー系の文字、そして漢字などはそれぞれ文化圏、場合によっては宗教的な勢力圏を表している。
場合によってパスパ文字のように、帝国が崩壊することで、勢力圏の消滅とともに消える文字もある。
こう考えると、文字は結構政治的な存在なのである。
モンゴル人青年が、苦労して読むモンゴル文字にはこんな背景がある。ふと彼を見ながら思ったことである。
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英エコノミスト誌の記事は、JBプレスがライセンス契約 に基づき翻訳したものです。
英語の原文記事はwww.economist.comで読むことができます。
荒井 幸康 Yukiyasu Arai:
1994年大阪外国語大学外国語学部モンゴル語科卒業、2004年一橋大学大学院言語社会研究科博士後期課程修了、博士(学術)、1995~1997年国立イルクーツク外国語教育大学講師(ロシア連邦)、2004年~2005年モンゴル発展調査センター客員研究員(モンゴル国) 。現在、北海道大学スラブ研究センター共同研究員。
専門:社会言語学(言語政策)、モンゴル学(20世紀以降の知識人層の形成史及び社会史)
単著●『「言語」の統合と分離 1920-1940年代のモンゴル・ブリヤート・カルムイクの言語政策の相関関係を中心に』三元社(2006年)
編著●“Internal and external factors on economic cooperation and development in Mongolia and Northeast Asia”
論文●アジア経済研究所 『アジア動向年報2009、2010』 「モンゴル」担当
』